長崎旅行 3日目 太宰府天満宮〜花立山温泉 2013.4.5 Part5

  ■DATA

国道500に入ると、のんびりとした風景に変わる。

国道3では、色々と苦労したから、やれやれと一息つけますね。

あとは、道なりに進んで、記念館に入るだけだし。

 

町中に入ると、混んで来た。

なんでかなと思い、ゆっくり進んでいると、駅近くのふみきりのせいだと分かりました。

日本全国、どこにでもあるんですね。

こういう、開かずの踏切みたいな所が(-_-メ)

 

踏切渋滞中・・

 

大刀洗記念館は、メジャーなのかマイナーなのかは、分かりません。

観光雑誌にも、載っていないぐらいですから(汗

因に、ツーリングマップルを見て知り、私は行くことにしましたが。

 

この辺りの観光地には違いないはず。

いい加減に、記念館の案内があってもいいはずなのに、ありませんね。

大丈夫なのかな?

ぐるぐるMapで見る限り、大分近くまで来ているはずなんだけど。

 

ようやくあったと思ったら、1km地点。

10km手前ぐらいから、出そうよ(汗

 

町が取り付けたから、ギリギリしか無かった?

 

1kmなんて、すぐに着く。

曲がり損ねない様に、それらしい建物、看板、標識が無いか注意して走る。

すると今度は、700m先右折と書いてある。

700m?

最初の標識から、数キロは走った感覚があるけど、300mしか走ってなかった?

1kmではなく、10kmの間違いだったかも?(汗

、、、と思ったけど、標識の写真撮れてたから改めて見ると、1.9km。

1.2kmしか進んでなかったのか。

 

反対側には、戦闘機が!

 

■大刀洗平和記念館

珍しい町立の資料館

 

本日最後の観光地に到着。

お昼に着いたから、かなり時間的余裕が有る。

私の好きな戦争ものだし、ゆっくり見るとするかな。

ただ、建物の大きさを見る限りでは、そんなに大きい感じがしませんね。

町立の記念館だし、そんなものなのかもしれませんが。

 

この辺りの案内図

 

中に入ろうとすると、衝撃の言葉を発見。

"撮影禁止"

え〜!!Σ( ̄□ ̄;)

 

これでも50万人来ています!

 

幸い、目玉であるゼロ戦の撮影のみOK。

このまま、EOS 7Dを持って行ってもいいか。

チケットを購入する時に、改めて撮影禁止ですよと念を押されたから、本当にダメなんだね(>_<)

 

料金表 ここもJAF割有り

 

企画展もあります!

 

チケット! 2回購入?したので2枚ある!(^^ゞ

 

最初の辺りだけ、係員の方に説明を受ける。

どうして、この大刀洗に記念館があるというと、その昔、大刀洗には東洋一と言われた陸軍の飛行場が有り、戦争末期にB29の空襲を受け

て壊滅した歴史が有るとか。

 

中は、こんな感じでした パンフより

 

2Fというか、天井には飛行機の形をしたモノが、吊り下げられているけどあれはB29の大きさを

表しているそうです。

そして、2F部分にはB29を迎撃した屠竜の大きさが、展示されているとか。

 

ここからは、一人で好きな様に見るけど、写真が撮れない分、ゆっくりと読んでみて行く。

時間的な余裕は有るけど、疲れるなあ。

写真撮ってないと、何がどんな順番であったか、思い出せないし記事を書く時に困るんですよね(汗

 

幸い、お土産コーナーに、ここの資料館をまとめたムックが売られていたので、それを購入。

そこから写真をとれるから、助かったんだけど。

 

まず最初は、この大刀洗基地、、飛行場の説明から。

どうして、この場所に作られたのかなどの説明。

何でも政府が4つの条件で探していたけど、その条件にここがあったからとか。

 

当時の戦闘機は航続距離が短いため、前線に近い場所に飛行場が欲しかった。

航空機だから、強い風とかの気象条件がいいこと、広い土地を安く購入しやすいこと。

あと1つは、何だったっけ?( ̄∇ ̄|||)

 

大刀洗のことだけじゃなく、日本の航空界の歴史紹介もありました。

これって、各務原飛行場でも見たな。

 

女性のパイロットも居た! ここから購入したムックからご紹介

 

そういった背景を受け、この大刀洗飛行場が作られ、中国等の中継基地から発展し色々な施設が作られ、航空機の生産、整備もできるようになった。

やがてはパイロット養成所としての目的のために、さらに施設が追加されたり、日本全国から沢山の人が集められ、パイロットや技術者を

養成するようになったんだとか。

 

大刀洗飛行場のはじまり

 

飛行場ができる前は、何も無い静かな田舎町だったのが、飛行場を中心とした経済が発展して、繁栄を極めたそうです。

その当時の写真や紹介があり、現在との比較があったけど、今ではただの住宅地が昔は百貨店だったり、路面電車が走ってたりと、

随分と違うのを感じました。

 

航空機開発の流れで、沢山の戦闘機等も紹介されてました。

かなりマイナーだけど、この地にも航空機メーカーがあったそうです。

その名も、九州飛行機。

マイナーだったのは、地方メーカーだったことと、作っていたのが練習機、哨戒機、偵察機等の支援型の航空機がメインだったから。

縁の下の力持ち的な存在か。

 

異端児メーカー?!

 

戦闘機も作っていて、なんとあの有名な、伝説に近い"震電"を作ったそうです。

これは、スゴい。

独特のフォルム、革新的な技術、戦後末期に作られた最後の戦闘機。

そして何よりも、量産、実戦配備される前に終戦を迎え、もしもっと早く震電が開発されていれば、日本の戦況ももっと違ったのではないかと、

言われる事が魅惑的なんですよね。

 

これが震電の実機写真!

 

実戦で戦っていないだけに量産もなく、写真等の資料も少ないから、一般の人が震電をどれくらい知っているかは、分かりません。

でも、日本の戦闘機が好きな人なら、誰でも知っているはず。

 

どっちが、前か後ろか分からない?!( ̄∇ ̄|||)

 

他にも作ってた戦闘機

 

水上機も

 

その震電の大きな模型が展示されていたけど、それの写真を撮れなかったのは、非情に残念。

それまでの戦闘機と一線を画するデザイン。

個人的に好きですね。

 

日本のゼロ戦は出て来た最初は、かなり強くて恐れられたのが、やがてはゼロ戦を上回る能力、生産数を誇るアメリカに、駆逐されてしまう・・。

その敵国の戦闘機の小甲斐もあって、面白かったです。

 

敵国の戦闘機 名機ぞろい

 

聞いた事のある機種が多く、アメリカは本当に技術力が高かったんだなと感じますね。

日本だと、航空機メーカーが限られてしまい、やはり技術力がアメリカに及ばない・・。

私が知っているだけでも、アメリカにはロッキード、ノースアメリカン、ボーイング、そして猫用戦闘機を作っているグラマンなどがある。

こりゃ、勝てる訳が無い・・。

 

最大の敵B29 今はボーイングの旅客機に日本人が乗っているのは皮肉か・・

 

生産数にしても、小学校で習ったけど、資源を持っている強みも有り、全く違う。

にっくきB29の生産ですが、ボーイングだけでは製造が追いつかないので、他社の工場もB29のラインに切り替えて大増産。

約4000機も作られ、終戦日の最後の出撃には、809機が飛び立ったとか。

まさにケタ違い。

 

この大工場を当時の国民が見たら・・

 

オマケではないですが、ゼロ戦、、、零式艦上戦闘機シリーズの紹介とともに、記念館メイン、、

目玉になっている、本物のゼロ戦32型の説明に繋がる。

 

大刀洗飛行場から飛び立った飛行機

 

モーリスファルマンって、各務原に実機無かったっけ?

 

日本各地にある数少ない零戦の実機の1つ。

南方のタロア島という所に、墜落して残っていた機を所有者と交渉し譲り受けて、日本に持って来て修復。

それを展示したものだとか。

 

日本の戦闘機なのに、なんで外国人が所有なの?

おかしく感じますね。

 

こちらが撮影可能の零戦!

 

エンジン

 

コックピットの計器類 メーターいっぱい!

 

駐車場見たら、隣にMocoが!Σ( ̄□ ̄;)

 

上から見た零戦

 

ちなみに、その所有者は敵国のアメリカ人。

時代は戦後からかなり経った、昭和53年。

爆発物処理をしていたら、この零戦が出て来たそうです。

それをアメリカ海軍がやってて、この人が欲しい!と言ったらもらえたのかな?

その辺りが書かれてないので、想像しか有りませんが。

 

2Fからズームでコックピットを・・

 

しかし、それだけでは日本に持ち運ぶ事が出来ず、サイパンでは戦争遺物を持ち出す事は法律で禁止された上に、住民の反対運動も起こって、

大変だったそうです。

この話は記念館にはなくて、記念館で購入した資料に書いてありました。

購入者特典?!( ̄∇ ̄|||)

 

戦闘機独特のエンジン

 

余談になりますが、海外にも零戦は現存するけど、海外メーカーが残骸を元に再現した"実機"もあるそうです。

そして何よりも驚くのが、実際に飛べる事。

 

プロペラ

 

これまた皮肉にも敵国の、ロシア、アメリカがやってるんですね。

アメリカが零式艦上戦闘機21型を。

ロシアが22型を復元し、この22型はアメリカの映画、パールハーバーにも出演。

どうして、日本のメーカーが、それをしないのか理解に苦しむ。

、、、まぁ、バブル崩壊後は、そんな事をしている余力が無くなっちゃったのでしょうが。

 

 

逆光で無ければ、もっと色々と撮れたのになあ・・

 

パイロットは、最期に何を思って飛んだのか・・

 

話は大刀洗飛行場に戻しますが、飛行場を中心として発展してきた町も、やがては悲劇を迎える。

軍事施設であるがために、避けられない事ですね・・。

ましてや、重要的な施設であれば。

 

B29が・・

 

15分程度と短い映画ですが、その悲劇を含めた大刀洗紹介ムービーが、1時間置きぐらいに上映されていて、何度も見る事ができます。

飛行場が作られる頃から、戦時中、終戦まで、おばあさんが孫に思い出を語り継ぐという形で紹介。

分かりやすいし、それなりの迫力、、、迫力というよりショックが大きなものでした。

 

それらのワンシーン

 

終戦間近の昭和20年3月27日。

B29の大編隊が、大刀洗の町を襲った。

合計6回の空襲が有り、1000発の爆弾が投下され、飛行場だけでなく、そのまわりにあった町も壊滅的な被害を受けた。

 

その中でも、もっとも悲しいのが、多くの子供が犠牲になった事。

軍とは全く関係のない民間人、ましてや子供も殺すとは、まさに鬼畜米英。

第二次世界大戦は、敗戦国が悪、連合国が善の様に語られますが、決してそうではない。

結局は、どちらも悪い訳ですから。

戦争を始めるには、お互いの利害が有り、それの関係で陣営が分かれるだけ。

 

アメリカ人が、これを見たら何と思うのか?

 

この空襲があった日は時期的に、大刀洗の町では小学校の終業式をやっていました。

その最中に空襲警報が鳴り、大急ぎで非難。

近くの森に逃げ込んだのですが、そこの森に1発の爆弾が投下され、合計34名の子供が

殺されてしまった・・。

 

どうして、基地から離れた森に爆弾を落としたのか?

殆ど説明がなく、誤爆だったことを匂わせる様な事が書いてあっただけで、原因は不明。

 

あくまで私の推測ですが、一方の森にはガソリンが隠してあったそうなので、森には何か隠してあると情報をつかんでいたアメリカ軍が、

計画的に空爆したのではないかなと。

ただ、それならもっと爆弾を落としているだろうし、1発だけというのはおかしな話。

 

さらにアメリカ軍の蛮行の1つとして、民間人を機銃掃射で殺す話が有名。

この大刀洗でも、空襲後にアメリカ戦闘機が飛来して、交通網の破壊は分かるとしても民家、そして農作業中の人々までも襲ったそうです。

 

そういった事実が有るなら、子供達が逃げ込むのを見て、意図的に投下した可能性も否定できない。

全く持って、許せない話ですよ(-_-メ)

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