ペリーロード 2016.9.21 Part5

  ■DATA

反面、伊豆の歴史を語る上で、韮山反射炉は外せない程の重要なものなんですね。

結果的には役立たなかったとはいえ、日本の時代背景を色濃く残す数少ない建造物。

製鉄の技術だけでなく、やはり当時の時代背景を伝える物としても重要だと感じる。

 

高馬反射炉の遺物、、伝承に寄ればだけど

 

火縄銃等 農民を兵隊訓練していた江川太郎左衛門

農民 vs ペリー!!

 

その韮山反射炉の原型というか、一号炉がこの下田にあったのか。

それを機密保持の為に、韮山に建設。

その流れでの紹介の様です。

 

これが幻?の高馬反射炉? 跡地だから何も無い?

 

ちなみに、韮山反射炉では、この下田の反射炉の話は殆ど出て来なかった様な・・。

資料館を今年の夏には完成予定だったけど、何故か延期になって今年末にオープン予定になってしまった。

そのため、説明自体が少ないですからね・・。

 

このフロアのメインは、牢屋。

わざわざ実物大?で作ってあるので、かなり目立ちます。

子供が真っ先に、興味持ちそう。

 

牢屋の中に誰か居る!

 

中に入っている罪人は、吉田松陰。

教科書で見た事の有る人だけど、塾以外に何した人か知らないなあ。

幕末嫌いだし( ̄◇ ̄;)

 

これが吉田松陰?

 

わざわざ自首しなくても良いのに・・ 馬鹿正直?

 

獄中で良く読んでた本 漢字ばっか!! 面白いの?

 

知らない分、解説を見る訳ですが、外国に逃亡?したかったのか、密航しようとして捕まった、、、自首してるんですね。

それだけで処刑されたのは、酷かと思ったけど、今で言うテロリストだったみたいで、そりゃ殺されて当然。

なんで、そんなテロリストが教科書に載るんだろう?

ビンラディンも教科書に載りそうだけど、悪い人での紹介だよね。

なんで、良い人?扱いなんだろ?

 

行動派だった吉田松陰

 

この駕篭に入って、各地を巡っていた?!( ̄◇ ̄;)

 

個人的に明治政府が大嫌いだから、明治維新、文明開化も大嫌い。

文化財の大量破壊等、江戸幕府よりバカやってますからね。

日本の損失は、計り知れない・・。

そんなバカ政府を作った一人か。

 

吉田松陰年表

 

1854年が、やたらと多い・・

 

そして最後は、首カット・・ 政府要人を狙ったら当然ですわ(;´д`)

 

■二号館2F

一旦外に出て降りて、また上がる・・

 

普通は1Fからスタートですが、何故か2Fが順路になっているので、2Fからスタート。

1号館は大ざっぱな展示で楽だったけど、この二号館は展示物がいっぱいで充実している。

うわぁ、こりゃ大変だ(汗

 

これが通称、黒舟!

 

ヘリー艦隊の航路 えらい遠い所を、はるばるとやって来たもんだ 給油の関係で、反対側からは無理だった?

 

最初のフロアは、黒船襲来!!

いよいよやって来ますよ、使徒が!

迎え撃て!

 

アメリカの国旗は、侵略の国旗・・ 星を無くせ!

 

今でこそ、アメリカから日本に来るには、飛行機でひとっ飛びだけど、当時は船しかありません。

しかも航路も確立されていないだろうし、大後悔=死を伴うもの。

航海に出て何割かは必ず死ぬというのも、見た事が有ります。

 

そんな時代に、遠路はるばる日本までやって来たペリー一行。

ヘタしたら、いきなり首切られるかも知れないし、大変な役目ですよね。

東方の未開国に行けと、言われたペリーの心境は?

 

日米和親条約の写しが展示されていたけど、何が書かれているかの説明は無し。

たしか、不平等条約で、この条約を改定してもらうために、えらい苦労したと習った気が・・。

 

これが日米和親条約!

 

当時の日本は発展途上国。

先進国の西欧からは認められていないし、言う事を聞かなければ実力行使されて、植民地にされかねない。

それ故に、不平等でも条件を飲むしか無かった日本。

されと同時に、今では国連の常任理事国やってる癖に、この当時はえげつない事を堂々とやってたわけですよ。

 

その不平等条約が無くなるのは、日露戦争で辛くも日本が勝ってから。

バルチック艦隊を壊滅させた日本は意外に強いぞ、ということで認められたのかな?

 

黒船来たる! 黒船の模型だ

 

鎖国中の世界情勢

 

"黒舟"の模型展示。

本当の船名は、ポーハタン号という言うらしい。

なんか、弱そうな名前だな(汗

 

ポーハタン号 これでも強い?

 

なんで長さがフィートのまま? mに換算しろよ・・( ̄◇ ̄;)

 

このポーハタン号を始め、6隻の大きな船を引き連れ、ペリー艦隊としてやってきたんですね。

大艦隊?

 

私がペリーだ!!

 

異文化交流は、いいことだとは思うが・・

 

この資料館では、説明が無かったと思うけど、浦賀と混同しがちになる。

初めて来たのが浦賀で、条約を結んだのが下田でOK?

初めて外国船が来たインパクトの方が大きいから、浦賀の方が記念館作った方が良さそうだ(汗

 

ペリー艦隊が浦賀に来た時の事 やめろと言っても無視して強行?!

 

祝砲で脅す?! それ、威嚇射撃で祝砲じゃないじゃん・・(;´д`)

 

調べてみると、浦賀に初めて姿を現したのは、1853年。

翌年に横浜で条約を結び、下田港が開かれたから、1854年4月に入港して来たペリー一行。

日本史的には、そんなには大きな出来事ではない?

 

もう、日本にとっては迷惑、脅威でしか無いな・・ これで"交流"って言えるのだろうか?

 

伊豆の中では下田は大きな方だと思うけど、日本の中ではメジャーではありません。

どうして、当時としては世界に開かれるぐらいの、大きな港町だったのかな?

どうして衰退して行ったのかとか、書かれてなかったのが残念か。

 

関連の品々

 

、、、でも、一号館の1階で上映されてたミニ映画で、ちょろっと、そんな話が出てた様な・・。

下田がどんどん衰退して行き、それを少しでも盛り上げようと、祭りを考案したとかの話の流れで。

 

下田港が開港され、どかどかと入って来るペリー一行。

その当時の様子を日本側から、アメリカ側から記録されています。

 

写真はまだまだ無かったから、見聞きしたイラストがメイン。

アメリカ人から見た日本人も珍しいけど、日本人が初めて見た外国人の珍しさはハンパ無かったでしょうね。

 

石油ではなく、石炭が燃料? これは重いし煙がすごいし・・(;´д`)

 

その時に描いたイラストが、面白い。

○○をする外国人といった感じで、何をするにしてもアメリカ人がやると珍しさ一杯。

言葉は通じないけど、日本人との関係は、友好的な物だったのでしょうか?

 

いやらしい目で見てたのだろうか・・

 

アメリカ人の様子をイラストで残す・・

 

国としては、圧倒的な力を持っていたアメリカ。

今ではあり得ないけど、強硬で威圧的な態度を見せてまで、開港を迫り条約を結ばせてますからね。

日本人を未文化の発展途上国だと、見下しててもおかしくないし、日本側に関してもそういう背景も有るし

外人に対しての情報も無いし、喜んで友好的に迎い入れ似れた様には思えませんが・・。

 

亀を食べてたアメリカ人 なんか惨い・・(>_<)

 

ペリー提督のイラストがいっぱい。

それぞれ顔が違う?

 

ペリーコーナー?

 

実際にペリーを見た絵師が少ないし、伝聞とイメージ優先だから、こんなことになったのか。

時代だなあ・・。

 

テレビも写真も無いから、殆どの人が伝聞に頼るし、尾ひれがつきまくるだろうし・・

 

左側のは無いだろう・・( ̄◇ ̄;)

 

アメリカ側が残した記録も興味深い。

従軍カメラマンではないけど、絵を描いて記録する人が居て、ハイネという人が残したそうです。

ハイネって、ドイツ人だよね。

アメリカとドイツって、敵同士のイメージが強いだけに、なんか意外だ。

 

記録係のハイネ

 

ハイネのイラスト この当時は混浴が普通!

 

戸田の造船資料館を見学した時も、プチャーチンと一緒に従軍の画家か何か居たよね。

その時代と同じだから、重なってる話もありますね。

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